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建築散歩!No.2「日本建築史 前編」~マスターと共に歩む、街歩きを兼ねた建築物の探訪~

日本建築史 前編

今回は、日本の建築史(前半)について触れてみたいと思います。

紀元前の縄文時代には、竪穴式住居が見られ、縄文後期には高床式建物がみられるようになります。紀元後は、古代の「神社建築」や「仏教建築」の伝来により、法隆寺のような仏教建築が建立されるようになりました。以降、仏教建築や神社建築として現代に受け継がれてきますが、これについては、機会があれば取り上げられればと思います。

その後の建物の形式として、平安時代を代表する建物の形式である「寝殿造」があります。この形式では、大きな空間を御簾や屏風などの可動式の家具等で区切って使用していたようです。中世(鎌倉~室町時代)になると、徐々に固定的な間仕切りが見られ、板の間の状態から畳などの敷物も徐々に増えていきます。近世(江戸時代)にかけて、「書院造」へと発展していきます。

この時代に並行して造られるようになった「城郭建築」についても、機会があれば取り上げられればと思います。

中世に禅宗を通し抹茶の風習が広まり、広間で行われていた茶会が次第に狭い部屋となり、4畳半ほどの独立した「茶室」に変化していきました。近世にかけて茶室との関連とも、書院造の形式を崩す中で成立したとの考えも有力な「数寄屋建築」があります。桂離宮に代表される建築様式で、庭とともに見るべきものといえます。

近世以降では、民家や農家で現在まで建物が残っているケースがあります。多くの場合、「重要伝統的建造物群保存地区」で纏まって見ることができます。全国に120以上ありますので、文化庁のWebサイトを参照してください。

文化庁

「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」

近代(明治~大戦前)建築に入る前に、「大工」について。古くは木工寮の長官を示し、この下に少工、さらには木工、土工、瓦工などが置かれ、外来の最新技術を国が握っていたようです。建築における「土」に関わる職を「左官」、「木」に関わる職を「右官」と称していたとの説もあるようです。近世になると領主に支配される御用大工と一般の需要に応える町大工に分かれたようです。なお、「棟梁」とは古くは文字通り棟に架かる梁を指していましたが、室町時代以後、工事組織において最も高い、もしくはそれに次ぐ地位の技術者を指し、江戸時代以後は大工職人の組織における「監督者や親方」を指す語となったようです。

明治維新後、新政府は産業の近代化を図るため、西洋諸国から技師を招聘し、その技術を得ようとしたわけですが、その「お雇い外国人」建築家の中で影響力が大きく重要な人物は、「ジョサイア・コンドル」(英語読みでは、コンダーに近い)でしょう。教育者であり、有能な建築家であるコンドルは、鹿鳴館を設計したことで知られていますが、その他にも、霞が関法務省旧本館(司法省)、丸の内の三菱1号館(復元)、湯島の岩崎久彌邸、高輪の開東閣(岩崎家別邸:三菱グループの倶楽部)、綱町の三井倶楽部、駒込の大谷美術館(古河邸)、神田駿河台ニコライ堂関東大震災後、修復)等、多数あります。

三菱1号館三菱1号館三菱1号館三菱1号館
三菱1号館

彼を迎えて開校した初の建築教育機関、工部大学校造家学科(現、東京大学建築学科)の第1回卒業生には、日本初の建築家といえる辰野金吾、片山東熊、曾禰達蔵、佐立七次郎の4名がいます。

次回3回目は、日本の建築史(後半)として近代から現代について「建築家」にスポットを当てて触れてみたいと思います。

次々回(4回目)以降は、この初の日本人建築家、「辰野金吾」と「片山東熊」の作品について、私が見に行ったところを写真中心に触れていきたいと思います。

参考記事