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建築散歩!No.6「日本銀行大阪支店 旧館」~マスターと共に歩む、街歩きを兼ねた建築物の探訪~

2月に「相続対策専門士」コース2023の運営のため、大阪に行って参りました。その帰りに寄り道です。前回に引き続き「辰野金吾」の設計による「日本銀行大阪支店 旧館」を見ていきましょう。

大阪・中之島にありますので、最寄り駅は「淀屋橋」駅や「大江橋」駅です。御堂筋に面して市役所の向かいですので詳細はいらないでしょう。
川や大通りに面していますので、東京・日本橋の本店と違い外観を眺めやすい場所にあり、デザインはやはり似ています。ベルギー国立銀行等をモデルとした古典主義の流れを受けたもののようで、夜景もちょっとしたものですので機会があれば眺めてみて下さい。

中之島には、御堂筋を挟んで向かいの市役所の奥には、「大阪府中之島図書館(設計:野口孫市)」、「大阪市中央公会堂(原設計:岡田信一郎/実施設計:辰野片岡建築事務所)」がありますので、こちらも見比べてみては如何でしょうか。
中之島図書館は、追々取り上げていきたいと思います。

日本銀行大阪支店 旧館
日本銀行大阪支店 旧館
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日本銀行大阪支店 旧館
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日本銀行大阪支店 旧館

大阪市中央公会堂は、当センターホームページ/フォローアッププログラムのTopicsのアラカルトもご参照ください。

不動産流通推進センター フォローアッププログラム (retpc.jp)

<[コラム] Fupのなかの人> 日本の美しい建物レポート3 (大阪市中央公会堂)

建築散歩!No.5「日本銀行本店 本館」~マスターと共に歩む、街歩きを兼ねた建築物の探訪~

日本銀行本店 本館
日本銀行本店 本館

前回に引き続き、「辰野金吾」の設計による建築を見ていきましょう。

今回は、「日本銀行本店 本館」です。この建物は「ネオ・バロック様式」が用いられ、いわゆる辰野式と呼ばれる赤煉瓦と白い大理石のデザインではありませんが、構造は1階は石積み、2~3階はレンガ積みで表面を薄い石張りで仕上げて軽量化しています。

予約をすれば内部を見学できますが、ふらっと見に行ったためドーム下の正面玄関は見られませんでした。

上から見ると「円」の字に見えるといわれる建物の左右の翼棟(円の字の両足の部分)の先端を壁(門)でつないで見えないようなデザインにしています。中央銀行ですから、防御機能を高めたともいわれていますが、その他諸説あるようです。

駅舎、銀行などで様々な歴史様式を採用した辰野金吾の建築の中では、次回紹介する「日本銀行大阪支店」はデザインが似ているものかと思います。

日銀本店の道路を挟んで周りには、バロック様式の「三井本館」や「三越本店」、外壁の装飾を排除した「近三ビル」(旧森五商店ビル/設計:村野藤吾)、アーチを多用した出入り口や半円形の窓の幾何学的な装飾が特徴の「常盤小学校」などもあり、建築様式の違いを見比べられますので、現地訪問の際はぜひ一緒にご覧ください。

日本銀行本店 本館
日本銀行本店 本館
日本銀行本店 本館日本銀行本店 本館日本銀行本店 本館日本銀行本店 本館
日本銀行本店 本館

建築散歩!No.4「東京駅丸の内口駅舎」~マスターと共に歩む、街歩きを兼ねた建築物の探訪~

東京駅丸の内口駅舎
東京駅丸の内口駅舎

今回からは、主に日本人建築家に注目して、近代建築について触れてみたいと思います。

最初は、初の建築家といわれる「辰野金吾」による建築を見ていきましょう。

まずは、「東京」駅舎(丸の内口)です。赤レンガの建築に白い花崗岩を帯状にめぐらせるデザインで、「辰野式」または「辰野式フリー・クラシック」と呼ばれています。この手法は、辰野がイギリス留学中に流行していた「コンストラクショナル・ポリクロミー(構造的多彩色)」と呼ばれるもので、ヴィクトリア朝後期には「クイーン・アン様式」とも呼ばれたデザインです。

ご存じの通り、太平洋戦争の空襲でドームや3階部分が焼けてしまい、戦後長らく2階建てで、ドーム屋根部分は平らな斜め屋根がかかっていたわけですが、平成24(2012)年復元されています。

建物に近づいてよく見ると、1~2階(保存)と3階(復元)部分の赤レンガの色などの違いが見て取れます。白い花崗岩も汚れ具合が明らかに違いますので、東京駅にお越しの際は、近づいて見てみて下さい。

東京駅丸の内口駅舎
東京駅丸の内口駅舎

赤レンガの積み方は、「イギリス積み」(1つの段はレンガの長手、次の段は小口というように交互に積み上げる:なお、一部には、フランス積み、ドイツ積み(小口積み))を採用しています。

また、レンガ壁面が立体的に美しく見えるように、目地は断面が半円状になっている「覆輪目地」で施されています。目地が手前に膨らんでいるような仕上がりで、現代の職人には伝承されていなかった高度な技術を要するものであるため、この復原工事に際し、専用の鏝を造って、職人さんが訓練をして作業をしたそうです。

東京駅丸の内口駅舎
東京駅丸の内口駅舎

南口正面の東京中央郵便局(前回触れたモダニズム建築のビル)の屋上に出ると、また違った目線(上方)から眺められますので、是非どうぞ。

東京駅丸の内口駅舎
東京駅丸の内口駅舎

東京駅丸の内口駅舎
東京駅丸の内口駅舎
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東京駅丸の内口駅舎
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東京駅丸の内口駅舎
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東京駅丸の内口駅舎
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東京駅丸の内口駅舎

建築散歩!No.3「日本建築史 後編」~マスターと共に歩む、街歩きを兼ねた建築物の探訪~

日本建築史 後編

今回は、日本の建築史(後半)として近代から現代について「建築家」にスポットを当てて触れてみたいと思います。

工部大学校の第1回卒業生で主席の「辰野金吾」は、欧州留学を経て、日本全国各地に辰野式と呼ばれる建築作品を手がけています。当時の欧州では、リヴァイヴァル建築が主流であったため、過去の建築様式を正確に再現する様式建築を残しています。

「片山東熊」は、フランスで会得したネオ・バロック第二帝政)様式を得意とし、宮廷建築家として活躍しました。いずれも明治新政府が進める近代化(欧州の技術、文化を急速に取り込む方針)を具現化させていったものといえるでしょう。

この後、20世紀に入るころ、欧州では自由な造形を追求するアール・ヌーボーやセセッションが流行し、第2世代の建築家の中にその影響を受けた者がいます。「武田五一」(京都の同志社女子大学ジェイムズ館等)、「野口孫市」(大阪府中之島図書館等)などです。

欧米ではなくアジアに目を向けた「伊東忠太」は、築地本願寺を手がけています。ご覧になったことがある方は、インドの石窟寺院を彷彿とさせるデザインにピンとくるのではないでしょうか。

大正時代末期には、日本にもモダニズム建築が導入されてきます。我が国で最初にモダニズム建築を導入したといわれる「山田守」は、逓信省東京逓信病院などを手がけていますが、建物は残念ながら現存していません。

山田の逓信省の後輩の「吉田鉄郎」は日本の伝統をモダニズム建築の中に取り入れようとした建築家といわれており、東京中央郵便局(建物前面を残して後背部はJPタワービル)が東京駅丸の内南口駅前に残っています。

東京中央郵便局
東京中央郵便局
東京中央郵便局東京中央郵便局東京中央郵便局
東京中央郵便局
東京中央郵便局東京中央郵便局
東京中央郵便局

国内では、フランク・ロイド・ライトの影響が大きく、同時に欧州で活躍する有名建築家に師事した者もいます。「山口文象」は、グロピウスのもとで、また「前川國男」や「坂倉準三」は、ル・コルビュジエのもとで学んでいます。

太平洋戦争により、主要都市では空襲により甚大なダメージを受け、明治期より続いた様式建築の建設は終焉を迎え、戦災からの復興に追われ、モダニズム建築の建設も一旦中断されましたが、1950年頃から再び活気を取り戻していくことになります。戦後の建築界で特筆に値する建築家は「丹下健三」でしょう。建築家であり、東京大学で教鞭もとり、多くの建築家を輩出してもいます。

高度経済成長期後半になると、未来の姿を提示し、世界に対しアイデアを発信していくべきと考えるようになり、その業界の動きの一つとして「メタボリズム」運動があります。生物学でいう「新陳代謝」を意味するものです。「菊竹清訓」、「大高正人」、「槇文彦」、「黒川紀章」などがメンバーです。

1973(昭和48)年には、オイルショックが起こり、経済成長と同様に建築界もターニングポイントを迎えます。モダニズム建築に疑問を持つものがあらわれ、いわゆるポスト・モダニズム建築の探求です。「磯崎新」、「安藤忠雄」、「伊東豊雄」といった建築家です。

伊東豊雄の代表作の一つ、「せんだいメディアテーク」は、当センター・フォローアッププログラムTopicsのアラカルトで取り上げていますので、ご参照ください。

不動産流通推進センター フォローアッププログラム

<[コラム] Fupのなかの人> 日本の美しい建物レポート2 (宮城県宅地建物取引業協会、全日本不動産協会宮城県本部の訪問を終えて寄り道)

残念ながら昨年末、「磯崎新」は亡くなりましたので、私はお正月に代表作の一つ、「つくばセンタービル」を見に行きました。今回は最後にこれを取り上げ、冥福を祈りたいと思います。

1983(昭和58)年築の同ビルはL字型の配棟で、その中心にある楕円形広場のペイヴメント(敷石を敷きつめた歩道)に、ミケランジェロカンピドリオ広場のデザインを採用するなど、歴史的モチーフを応用しつつ、新しい空間を創造しています。

つくばエクスプレス(TX)「つくば」駅のまさに駅前です。秋葉原から快速なら45分ですので、首都圏の方は是非一度、ご見学を検討してみて下さい。

つくばセンタービル
つくばセンタービル
つくばセンタービルつくばセンタービルつくばセンタービルつくばセンタービル
つくばセンタービル
つくばセンタービルつくばセンタービルつくばセンタービルつくばセンタービル
つくばセンタービル
つくばセンタービルつくばセンタービルつくばセンタービル
つくばセンタービル

建築散歩!No.2「日本建築史 前編」~マスターと共に歩む、街歩きを兼ねた建築物の探訪~

日本建築史 前編

今回は、日本の建築史(前半)について触れてみたいと思います。

紀元前の縄文時代には、竪穴式住居が見られ、縄文後期には高床式建物がみられるようになります。紀元後は、古代の「神社建築」や「仏教建築」の伝来により、法隆寺のような仏教建築が建立されるようになりました。以降、仏教建築や神社建築として現代に受け継がれてきますが、これについては、機会があれば取り上げられればと思います。

その後の建物の形式として、平安時代を代表する建物の形式である「寝殿造」があります。この形式では、大きな空間を御簾や屏風などの可動式の家具等で区切って使用していたようです。中世(鎌倉~室町時代)になると、徐々に固定的な間仕切りが見られ、板の間の状態から畳などの敷物も徐々に増えていきます。近世(江戸時代)にかけて、「書院造」へと発展していきます。

この時代に並行して造られるようになった「城郭建築」についても、機会があれば取り上げられればと思います。

中世に禅宗を通し抹茶の風習が広まり、広間で行われていた茶会が次第に狭い部屋となり、4畳半ほどの独立した「茶室」に変化していきました。近世にかけて茶室との関連とも、書院造の形式を崩す中で成立したとの考えも有力な「数寄屋建築」があります。桂離宮に代表される建築様式で、庭とともに見るべきものといえます。

近世以降では、民家や農家で現在まで建物が残っているケースがあります。多くの場合、「重要伝統的建造物群保存地区」で纏まって見ることができます。全国に120以上ありますので、文化庁のWebサイトを参照してください。

文化庁

「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」

近代(明治~大戦前)建築に入る前に、「大工」について。古くは木工寮の長官を示し、この下に少工、さらには木工、土工、瓦工などが置かれ、外来の最新技術を国が握っていたようです。建築における「土」に関わる職を「左官」、「木」に関わる職を「右官」と称していたとの説もあるようです。近世になると領主に支配される御用大工と一般の需要に応える町大工に分かれたようです。なお、「棟梁」とは古くは文字通り棟に架かる梁を指していましたが、室町時代以後、工事組織において最も高い、もしくはそれに次ぐ地位の技術者を指し、江戸時代以後は大工職人の組織における「監督者や親方」を指す語となったようです。

明治維新後、新政府は産業の近代化を図るため、西洋諸国から技師を招聘し、その技術を得ようとしたわけですが、その「お雇い外国人」建築家の中で影響力が大きく重要な人物は、「ジョサイア・コンドル」(英語読みでは、コンダーに近い)でしょう。教育者であり、有能な建築家であるコンドルは、鹿鳴館を設計したことで知られていますが、その他にも、霞が関法務省旧本館(司法省)、丸の内の三菱1号館(復元)、湯島の岩崎久彌邸、高輪の開東閣(岩崎家別邸:三菱グループの倶楽部)、綱町の三井倶楽部、駒込の大谷美術館(古河邸)、神田駿河台ニコライ堂関東大震災後、修復)等、多数あります。

三菱1号館三菱1号館三菱1号館三菱1号館
三菱1号館

彼を迎えて開校した初の建築教育機関、工部大学校造家学科(現、東京大学建築学科)の第1回卒業生には、日本初の建築家といえる辰野金吾、片山東熊、曾禰達蔵、佐立七次郎の4名がいます。

次回3回目は、日本の建築史(後半)として近代から現代について「建築家」にスポットを当てて触れてみたいと思います。

次々回(4回目)以降は、この初の日本人建築家、「辰野金吾」と「片山東熊」の作品について、私が見に行ったところを写真中心に触れていきたいと思います。

参考記事

建築散歩!No.1「様式から見た西洋建築史」~マスターと共に歩む、街歩きを兼ねた建築物の探訪~


不動産を扱う我々は、土地の価値や権利関係を扱うとともに、建物に関しても同様のことを扱うため、建物自体に対する造詣を深めていくことも大事なことです。
このコーナーでは肩の力を抜いて、建物に関する知識を深めていくべく、各地にある建物を散歩がてらに眺めていきます。

ひとえに建物といっても、構造、様式、時代など切り口によって様々であるため、まずは様式を中心に西洋の建築史を簡単に眺めてみましょう。
西洋建築として歴史上最初に認識されるのは、紀元前の古代のピラミッドに代表される「エジプト建築」でしょう。さらに「オリエント建築、ギリシア建築、ローマ建築」などが知られています。その後、「初期キリスト建築、ビザンティン建築イスラム建築、ロマネスク建築」、尖頭アーチが大きな特徴の「ゴシック建築」(サン・ドニ修道院付属聖堂、ミラノ大聖堂)など、宮殿や宗教建物として紀元後から中世の歴史を形成しています。

ビザンティン建築 - Wikipedia
ロマネスク建築 - Wikipedia
ゴシック建築 - Wikipedia

15世紀に入り始まった「ルネサンス建築」(フィレンツェ大聖堂など)では、造形的には古典建築を用いつつ、技術的にはゴシック、ビザンティン建築等の長所を取り入れています。さらにローマのサン・ピエトロ広場、パリのヴェルサイユ宮殿に代表される「バロック建築」、18世紀以降、バロック建築に反発し、伝統的な様式や手法に理想を求め歴史的様式を採用した「リヴァイヴァル建築」を経て、近代建築へと繋がります。

ルネサンス建築 - Wikipedia
バロック建築 - Wikipedia

ルネサンス建築 - Wikipedia
バロック建築 - Wikipedia

18世紀半ばにイギリスで興った産業革命が、建築に大きな変化もたらしました。新しい建材として鋳鉄の採用です。土木構築物である橋梁や、アーチ状の大空間、エッフェル塔のような塔がそれです。エッフェル塔は建設当初、鉄の化け物として評判が悪かったのですが、今では世界有数の観光名所となっています。ままある時代感覚と先端性の融合の難しいところです。
大量生産による粗悪な工業製品が広まるなか、職人による手仕事に立ち返ろうとする動きが、いわゆる「アーツ・アンド・クラフツ運動」と呼ばれるもので、後の「アール・ヌーヴォ」(英語にすれば、new artでしょうか)につながっていきます。
近代建築において重要な要素の一つとして、鉄筋コンクリート(RC)構造が挙げられます。コンクリートは、古代ローマ建築で既に普及していた材料で、セメントの成分によっては今のコンクリートより強固ではという話もあるようです。19世紀末、鉄筋と組み合わせるという新たな用い方が発明され、近代建築になくてはならない構造材料となっています。
その後、欧州各地で興った近代建築運動には、共通したイデオロギーがあり、それは過去の歴史様式や伝統的手法と断絶し、合理主義・機能主義・実用主義を根拠とした建築を目指すというもので、特徴として単純な箱型の形態、平滑な壁面、表面装飾の排除が挙げられ、「モダニズム建築」と呼ばれるようになります。最も知られた建築家は「ル・コルビュジエ」でしょう。アメリカを代表する近代建築家は、「フランク・ロイド・ライト」でしょうか。日本では帝国ホテルを設計し、建物の一部が愛知県犬山市に移築されています。

モダニズム建築 - Wikipedia

合理主義・機能主義に基づいたモダニズム建築が主流となりつつある中、1925年パリでアール・デコ展(現代装飾産業芸術国際博覧会)が開催されましたが、装飾的な建築は欧州では受け入れられず、ニューヨークのスカイスクレイパー(超高層建築)で盛んに用いられました。クライスラー・ビルやエンパイア・ステイト・ビルと聞けば多くの方がご存じでしょう。
第二次世界大戦は、建築に甚大な被害を及ぼすとともに、欧州の歴史的都市は、伝統を守りつつ戦前の姿に修復されたため、モダニズム建築は都市郊外に多数建てられ、経済復興の源泉となったといわれています。(米国は、この大戦の被害が少なかった国です)
1960年代には、世界的に都市の未来像がテーマとなり、日本でも丹下健三による「東京計画1960」等が発表されています。1970年代以降、新しいタイプの建築に対して「ポスト・モダニズム建築」と呼ばれるようになり、まさしくモダニズムに続く、次の時代の建築様式を指す用語です。ポスト・モダニズム建築は、現在も試行錯誤の段階にあり、いまだ結論には達していないと言われています。

ポストモダン - Wikipedia

西洋の建築史をざっくり駆け足で眺めてきましたが、皆様で興味のある時代の建築様式を深掘りしてみて下さい。次回は、日本の建築史を眺めることにしましょう。